表現の自由の公共圏論

従来の憲法学における「公共性」の用法 

・国家権力発動には公共性の観点から制約が課せられなければならない。
・自由を国家が制約してくるときの根拠も最も抽象的には「公共の福祉」である。

「公共」とは一体どういう意味なのか、イデオロギー批判も交え論じられてきた。
つまり、公共性とは、国家権力の特性だったのであり、自由とは対立的な位置関係にある。国家権力は公共性を有するからこそ、恣意的な行動が許されないのである。

公共圏概念を用いることは、公共性を持つものだから全くの自由には委ねられない、というような国家による規制を許容する論理となりかねないという危険をはらんでいる。

公共圏論を憲法学に導入する必要性

樋口・愛敬論争

樋口陽一 

<国家と個人の二極対立」論>

近代国家において国家の主権と個人の人権とが直接対峙するものとして成立したことを指摘して、この秩序の危険を承知しつつも、そこで「個人」の自由が承認されたことの意義を強調して、その「諸個人の自立と自律にもとづくres publicaを構築」する可能性に賭けるべきだと述べる(樋口陽一『近代国民国家の憲法構造』(1994年)90頁)。

(※Res Publica(レース・プブリカ)ラテン語、本来の意味は「公共のもの」「共有のもの」「民衆のもの」。政治学用語としては「共和制」「共和国」を指す。なお、polis =civitas =res publica(=republic )=commonwealth)

愛敬浩二

樋口の「国家と個人の二極対立」論には「諸個人が他者との対話を続けながら、公論を形成していくことで『市民』となるプロセスが介在する余地がほとんどない」(愛敬浩二「リベラリズム憲法学における「公共」」森英樹編『市民的公共圏形成の可能性(2003年)58,72頁』)。

つまり、市民自らの討議の場を組み込むことなしでは、諸個人によって担われるres publicaという樋口憲法学の根幹的主張は実現不可能だという批判。

自由な政治活動は公共的なものか

自由な政治活動は常に党派的なものであり、そうでなければ自由とは言えない。だとすると、それはなぜ公共的なものなのか、つまりそこにいかなる意味で公共性を認めることができるのか。自由な言論活動はばらばらに行われており、公共性は抽象的諸個人からなる有権者は一斉に参加して行う選挙でのみ成立しうるという理解のほうが素直にも思われる。

ジョン・ロールズ

政治的な意味のある言論活動に枠をはめることでその公共性を確保する。

ロールズの言う政治的リベラリズム = リーズナブルだが互いに共約不能な包括的世界観の多元性という現実においても、自らのリベラルな正義論がそれらと争う一つの包括的教義ではなく「政治的構想(political conception)」として限定されたものであれば、それら包括的世界観のオーバーラッピング・コンセンサスとして支持されることができ、正義にかなった社会を安定的に維持することができるという主張。
 
 自分の理論において市民が持続的に政治的正義について議論し社会を改良していくことが可能。「正しい体制とは、ハーバーマスが言うようにプロジェクトである」(John Rawls『political Liberalism』(paperback ed.,1996)p.402。